ハイル禅師の生涯を綴った名言シリーズ 多いなる涙と感動をあなた方に伝えます読んだ人は魂の歓喜雀躍を覚える事だろう

ハイル語録よもやま話

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病院に行く日 - 与三郎

2024/04/17 (Wed) 01:48:59
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初めから分かってる教育入院・・でもしないよ
病院に行った理由は診断書が欲しいだけ・・
そのために行ったのに・・
先週は久しぶりだったらしくて・・
1週間の様子見?・・
で・・再度病院に・・
診断書くれなかったら・・もう行かないよ
行かなくたって糖尿病は治らないし・・?
痛風さえでなければ行きたくもない・・
診断書・・くれれば
病院がよい当分続けても良いけれど・・
くれなければ・・
意味がないので病院なんか行かないよ・・

診断書書いてくれた・・
けれど・・なんだかんだで5000円もかかったよ
先週の土曜日も4000円
次は10日後・・お金かかるね・・

生れてきた理由 - 与三郎

2024/03/20 (Wed) 03:21:03
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自分が生まれてきた理由は

もう終わったのでは

家族との別れを看取る

そのためだけに生まれてきた

だから今は生きてる目的さえなく

肉体の滅ぶその時まで息をしてるだけ

♪~悲しくて悲しくて
  とてもやりきれない
  このかぎりないむなしさの
  救いはないだろか

Re: 生れてきた理由 - ハイル禅師

2024/03/20 (Wed) 08:55:06
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自分が生まれてきた理由は寿命までに御魂磨きをする事ですので寿命は人によって違いますが、徳を積み勉強をし続ける姿勢も進歩向上につながるのでそれだけでも生きている意味と価値があるのです。人は誰でも他界するので霊界と来世にもプラスに繋がるような生き方がとても大切になってくるのですね。

人はなぜ悩む - 与三郎

2024/03/20 (Wed) 03:10:19
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人が悩むのは他人を思うから
自分だけのことなら遜兄は悩まない
我慢すれば大概のことは通り過ぎて忘れる
だけど他人を思う気持ちが悩みを深める
何故他人のために悩む
それが自分の性格だから

♪~宵闇迫れば悩みは尽きない

今はそれを何とか出来てるが
何とかできなくなったときに
憂鬱さだけがまして悩み深く心まで砕ける

母との思い出③ - 与三郎

2024/03/15 (Fri) 03:54:13
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ある時の授業で隣の子が

”おまえの母さんは天国にいけないよ”

と、言われ僕は思いだして泣いた

言われたことよりも僕が今まで耐えてた物を思い出して泣いた

安藤先生は”邦ちゃんのお母さんは洗礼を受けなかった

けれども人は死んだときに誰でも救われるんですよ”

たしなめるように言った・・

隣の子は”ごめんね”とあやまった

安藤先生に連れられて

母さんの入院してる病院についた

横たわってた母さんが眼を細めて僕を見て

”ドロップを食べな”と言ってくれた

母さんの優しさを味わった

安藤先生と父さんの会話から

母さんがそう長くないことを察した

帰り際に母さんが何かを言ってたけれど

弱々しい声だったから

僕には何を言ってるのか分からなかった

母さんあの時何と言ってたの・・・

母さん・・僕の母さん

無理して国分寺の駅で苦しんでたよね

未だ子供がおなかに居るのに

僕を迎えに来てくれて

母さん・・翌年に・・

オリンピックの喧噪をよそに・・

僕の好きだった母さんは・・・逝ってしまった

Re: 母との思い出③ - ハイル禅師

2024/03/15 (Fri) 09:16:55
*.dion.ne.jp

10歳前後の多感な時期にお母さんを亡くされたショックは計り知れないと思います。またお母さんも幼い息子のことが気掛かりであったはずです。ただ人は輪廻転生を繰り返す為 必ず来世以降に互いが望めば家族として出会う事が出来ます。実際に何度も父と子・母と子と言う様に邂逅している人が多いからです。与三郎さんは善徳を積んでいるので必ず出会いは叶います。霊界でも来世でも出会いがありますので悲しみの気持ちよりも明るい気持ちでお過ごし下さい。

安藤先生 - 与三郎

2024/03/14 (Thu) 03:26:05
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安藤義隆先生は
1904年に小平市上水町生まれて
小学校の先生をなされていました
教育熱心なカトリック信者で
1985年夏・・
我が身をかばって子供を助けると言う
尊い 行為をされてそのまま事故で亡くなられました
僕が会った中で尊敬できる唯一の先生です
先生のご子息は今もかの地でご健在です

Re: 安藤先生 - ハイル禅師

2024/03/14 (Thu) 17:30:37
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安藤先生は正真正銘の本物クリスチャンでしたね。子供をかばって亡くなられたのは残念ですが、きっと来世は素晴らしい人生を謳歌出来るでしょう。

おとう② - 与三郎

2024/03/14 (Thu) 03:05:48
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僕は病院から早く退院させたかった

理由は看護婦たちが

患者をオモチャにしてるのを見たからだ

其れは親しさを越えた慣れすぎ・・

痴呆や動けない患者に対して

食事時や検温、点滴などの度に

患者のプライドにさわるような言葉遣い

年下の其れも女に屈辱的な言い方

赤ちゃん言葉まで使われる

何も出来ない患者・・さぞや腹の中ではと

そう言うことを間の当たりに見ていては

僕が居ないときに父がどんな目に遭ってるか

そう考えて・・早く某病院から退院させたかった

ほかの病院に初めから入れさせれば良かったのかも

とさえ・・思っていた

その思いが最後の最後にでたのではと

最後の通院の時何故か尿検査をしなかった

其れまで幾たびに尿検査をしていたのに

最後の通院に限り尿検査をしなかった

僕はなんでなのかなと思っていたけど

口には出して聞かなかった

病院には元気に行ったのに

帰ってからは寝込む方が多くなり

容態は悪くなっていった


父は掃除が好きで


朝早くから団地の周りを掃除していた


誰に頼まれた訳ではないのに・・


僕は其れがイヤでやめてくれと何度も言っていた


時には悪態もついてやめろと怒りもした


夏の暑い盛りでも冬の寒いときでも


まだ暗い中を箒で掃く音がしていた


父が亡くなった時


僕は父にもっと掃除をやらせてあげれば良かったと


そう思ってたのに昨日見た夢の中で


掃除をしている父を見てまた、怒ってた


余計なことしちゃ駄目だ”と


あれほど思ってたのにやはり・・・


生きてればそうなっちゃうんだなと


複雑な思いをした

母との思い出② - 与三郎

2024/03/14 (Thu) 03:00:36
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僕は母さんの笑顔をあまり覚えてない

父さんとケンカして神田の実家に帰ったときも

笑ってた顔を覚えてない

良く神田からの帰り

東京駅からお茶の水に帰る途中

電車の窓から良く赤い屋根の家、あそこが母さんの家よ

と、よく言ってたけれど神田駅周辺の家は

ほとんどが屋根が赤っぽくてどこだか分からなかったよ

母さんの笑顔で印象に残ってるのは

運動会の時の楽しそうな笑顔

手伝いでヤカンをもって笑ってた

今でも母さんの面影を浮かべるとき

その笑顔が頭に浮かぶ・・

あれは9月の初め

放課後の何気ない休憩中に先生に呼ばれた

”邦ちゃんのお母さんが入院したから今から病院に行こう”

僕はその時から頭の中で物を考える事が出来なくなった

程なくして現れた安藤先生に連れられて

僕はバイクの後ろに座った

国分寺から神田にある病院までの間

僕は先生の腰に手を回してしがみついていた

母のことを考える余裕もなく

病院に着いて母を見舞った・・

弱々しい姿で・・

それでも僕がきたことは分かったみたいで

さかんに側にあったサクマのドロップを

僕に食べなさいと言ってくれた

母なりの僕に対する愛情だ・・僕は食べた

先生は僕の父に洗礼を受けますかと勧めてた

この時だけ僕は先生が嫌いだった

子供心にも先があまり無いんだと理解したから

その晩に安藤先生は一人で帰っていった

洗礼は受けなかった・・

と言うのもこのときの父は創価学会員

父なりの苦悩を癒すために入信してた

熱心な学会員・・僕も名前だけの学会員

病院を後にする前に母が僕に何かを言った

良く聞き取れない声で何かを食べなさい・・

そう言ってたみたいだけれど・・

それが僕と母との最後の会話

病院を出て、僕は父と家に

このころ僕は10歳ぐらいだったか!

姉と妹も居たのだけれど記憶にない

ただ父と家の中の片づけをしたなと言う以外には

周りの風景が何も思い浮かばない

そんなことがあった翌朝

母は亡くなった

おとう① - 与三郎

2024/03/13 (Wed) 04:03:09
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父が生きてた頃・・

よく・・馬鹿・・馬鹿・・と言ってた

その父のおかげで・・今の生活が成り立ってる

父はよく・・後のことはちゃんとしてると

僕に話しかけてきてた

でも・・余り聞かなかった

父の居ない生活なんか考えたくなかったから

余り・・そう言う話を聞かないように・・してた

今・・父のおかげで・・

もっと話を聞いてあげれば良かった・・と

今頃後悔しても・・遅いけど ・・

もっと・・父の話を聞いておけば良かったのに

父の好きだった民謡も・・

将棋の相手もしてやれば良かった


今でも夢みたいな感じだ
瞬く間に時は過ぎたけれども
嘘のような日々だった
父がもういないなんて未だに信じられず
隣の部屋には父がまだいるような
時々部屋を見に行く
今までと同じようにそこに寝ているそんな気がして
父が亡くなり段々とその臭いが薄れていくけれど
ぼくのなかで僕が父のそばに行くまでは
いつも僕の中に一緒にいる
父が天国で楽しく暮らしているとしても
父にはまだまだ僕たちと一緒に暮らしていてほしかった


骨壷の中に納まってる父
持った瞬間重みを感じたのは
父の人生の値打ちと同じだ

Re: おとう① - ハイル禅師

2024/03/13 (Wed) 08:54:30
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私も毎日必ず数本の夢を観ますが自分では忘れている親との会話やふれあいなども観る事が有ります。ああ、そういえばこういう事が有ったな!と今では忘れているような内容もあります。月日が経過するのは早いもので親も霊界生活に入っていますが、生きている子供達は徳を積んで親の霊層界を向上させて上げる事こそ、今できる唯一の親孝行になると思っております。

母との思いで① - 与三郎

2024/03/13 (Wed) 03:57:11
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母さんとは良く歩いて出掛けた想いでがある

兎に角何処に行くにも歩いていった

お金がなかったこともあったけれど

良く歩いて出掛けたなと今でも思い出す

でも、其れが子供心にイヤだなとは思ってはいなかった

僕が疲れたと思ったことがあるのだろうか

物心付いた時からそうだったから

どうと言うことは無かった

最近も僕は東日暮里から花畑まで歩いて帰った

何となく歩いて帰ろうかなと思って

以前ほどの健脚はなかったけれど

翌日の筋肉痛を心配しながらも歩き通した

歩くことに何となくの気分が加われば

僕は何時でも歩いて何処までもいける

そんなわけで子供の頃から歩いて出掛けてた

今の晴海埠頭がああなる前の岸壁の頃も

勝ち鬨橋を渡って出掛けた

池袋まで大塚経由で歩いていったし

新宿・・は覚えがないけれど

よく行ったのが上野の松阪屋の屋上

そこで家から持ってきた海苔弁をよく食べた

今でも僕が海苔弁を好きなのがここからの所為でしょう

松坂屋と言えば階段から落ちたのを良く覚えてる

何かの拍子で足を踏み外したかあさんが・・

今思い出したけれど新宿にも行っていた

撲、迷子になったデパートで

エレベータに乗り損ねて・・

迷子センター?で僕は泣きじゃくり

迎えに来てくれた母さんにバナナを買ってくれと

照れ隠しに言ってたっけ

母さんが良く僕の顔をハンカチで拭いてくれたんだけれど

撲、いやだった・・だって母さんつば付けるんだもん。

安藤先生① - 与三郎

2024/03/13 (Wed) 03:01:02
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夏の日の放課後、みんなで鬼ごっこをした

野原の窪地をみっけて其処に隠れた

暗がりで今までの興奮が収まった時に

僕はふと涙が流れてきた

この学園に入学して母と別れた時を思い出した

ほんの数週間前まで一緒に過ごしていた母と

家庭の事情により僕は養護施設に連れてこられた

別れに際して僕は涙を我慢して母の後ろ姿を眺めていた

そして今まで慣れない環境で緊張していた物が

一人になった時にあふれ出した

僕はしゃくり声をあげて泣いた

誰にも気ずかれないように・・

”邦ちゃんみっけ”そんな声に顔を上げると

鬼役の安藤先生だった

僕の頬が涙で濡れてるのを見た先生は何も言わずに

手をさしのべて僕を窪地から出した

ハンカチを僕に渡すと肩を軽くたたいて

また競技に戻っていった


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